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大学教員として生きる道

著者は私大の准教授です。大学教員になるまでの経緯、日常の出来事などを記録します。

英語の論文をパブリッシュする意義

先日、モスクワのとある企業の研究者からメールが来ているのに気づいた。

どうやら、私の論文を読んで内容に興味を持ったらしい。

 

今や世界は小さいもので、英語で論文を書けば世界中の何処からでも、ネットを通じて論文にアクセスして読むことができ、更にはメール一つでその内容にまで踏み込んで瞬時に連絡をする事が出来る。一体、30年間前、誰がこのような世界を想像したであろうか?  30年前、私が小学生だった時、コンピュータゲームはファミコンゲームボーイ、まだインターネットはなかった。携帯電話もなかった。もちろんメールもない。

 

英語で論文をはじめて書いたのは10年前だった。何となく日本語で書くよりカッコいいし、論文の価値も高くなるだろうと言う浅はかな気持ちであった。本来は論文の内容を日本人に沢山読んでもらいたいならば日本語で書くべきだろうし、世界的にみてもインパクトがある、新規性があるということであれば英語で書くべきだと思う。はじめて論文を英語でパブリッシュしてから、今まで何本か英語論文をだしてきた。これまで具体的な内容にまで踏み込んで何らかのアクセスが入る事はなかったが、今回は何やら面白くなりそうだ。 もしかするとブレークスルーするきっかけになるかもしれない。いや、ブレークスルーさせなければ今まで国の予算を使って研究しているのだから、その責任を果たす使命がある。このロシアの研究者の事は引き続き別の機会に進捗をまとめたいと思う。

 

英語で論文をパブリッシュする意義は、世界的にみて面白い事、価値がある事は共有しようと言う研究者の熱い志だろう。そこには単に自国の国益のみを優先すると言う様な小さな視点ではなく、世界共通の悩みであったり問題点を解決する為の試行錯誤がある。その様な大きな心で研究を進め、自分の身の周りから少しづつ世の中を良くしていければと思う。もう一つは、これは研究者のスタンスなので一概には言えないだろうが、論文をパブリッシュする事は研究者の大切な仕事として、それをどの様に社会に生かすのかと言うもう一つの大事な仕事がある。二兎追うものは一兎も得ずという諺があるが、私はどちらも成し遂げれるような研究者&実務家でありたい。

 

たまに一体、このブログ記事は誰に向けて書いているのか、まとまらなくなってくるのだが、結局は自分の頭の中を整理する為かなぁと思う。と言う事で個人的なつぶやきのようなブログ記事ですがここ迄読んでくれた読者に感謝です。

やっと終わったセンター試験

やっと終わった〜という達成感は受験生だけでなく、試験を運営している大学教職員も同じように感じている事と思う。昨日、今日はセンター試験の試験監督を担当した。この数年、毎年のルーティン業務となっている。

 

受験生の皆さんには、日頃の学習成果を発揮して欲しいと思うし、高校から大学生になる為に全国共通で同じテストを同時に行うセンター試験の実施には基本的に賛成である。だが、実施にあたり多くの大学教職員がセンター試験の運営に駆り出されていることは知ってもらいたい。

 

試験監督をする上での説明会に半日、資料の読み込みに半日、そして実施日2日を合わせた合計3日間は、センター試験に時間を取られる。予備日のスケジュールも2日間、開けておかなければならない。1年間の内、365日分の3日がセンター試験に費やされている。いや、別の見方をすると自由に研究時間が取れる土日で考えると、1年間の土日の日数は104日なので、104日分の3日(30分の1)をセンター試験に費やしていることになる。

 

そのぐらいたいしたことはないと考えるのか、自由時間の30分の1が費やされていると考えるのかは人によるだろうが、私自身は貴重な時間を奪われていると感じる。自由時間の中には、学会出張や研究活動、家族と過ごしたり、ペットに餌をやったり、趣味を行なったり、本を読んだり、より人生を豊かにするべき時間も含まれている。

 

そこでセンター試験の試験監督を行うことをポジティブに考えてみる。

・頑張っている受験生の姿を見る事ができる。

・自分自身がセンター試験を受験した時の事を思い出し、若かりし頃を振り返ることができる。

センター試験の問題をいち早く見る事ができる。(しかし昨年より著作権保護のため問題用紙を持って帰れなくなった。)

・試験監督を学内の教職員と運営する事で一体感や達成感を感じることができる。

 

などであろうか。

 

センター試験改革が検討されており、2020年からセンター試験がなくなり、大学入学希望者学力評価テスト(仮称)と高校基礎学力テスト(仮称)の両方で入学者を選抜する事になる。思考力、判断力、表現力の3要素を評価できるテストが行われるよう準備が進んでいるようだ。  いずれにせよ新しい時代にマッチした試験が効率よく行われ、大学入学の選抜が行われることが望まれる。そして、大学教職員の手間を軽減出来れば、なお、素晴らしいと思う。 

私自身は受験生時代にセンター試験で思うような結果を出せずに第一希望の大学には合格できなかった苦い思い出がある。しかも2年連続して。

しかし、今では大学の教員となり、学生を指導する立場にあり、研究計画を立て外部資金を獲得し、統計ソフトを使いこなし、英語で国際学会で発表するし、英語の論文もパブリッシュしている。センター試験で失敗しても、第一希望の大学に合格できなかったとしても、勉強したことは無駄になっていないし、受験だけで人生が決まる訳ではない。もっとも重要な事は目標を持ち、それに向けて努力を続けることだと思う。受験生の時は本当に苦しかったと思うけどね。センター試験の改革によって、受験勉強には不向きだけれども研究熱心で、情熱があり、コミュニケーションがとれ、思考力、実行力、判断力に優れた人材を発掘し伸ばせて行ければと思う。そのためのセンター試験改革であるならば大いに賛成で協力したいと思う。

 

修士論文の審査

修士論文の審査を委嘱されている.

修士は頑張ったで賞,博士はそれに見合う内容と質が求められるという話を聞いたことがあるが,頑張ったで賞である修士の学位を修得する上で一番大切なことは何であるかを考えてみる.

 

文部科学省の大学院設置基準第三条によると,

 

修士課程の目的は「広い視野に立って精深な学識を授け,専攻分野における研究能力またはこれに加えて高度の専門性が求められる職業を担うための卓越した能力を培うことを目的とする.」とある.

 

一方,博士課程は,「専攻分野について,研究者として自立して研究活動を行い,又はその他の高度に専門的な業務に従事するに必要な高度の研究能力及びその基礎となる豊かな学識を養うことを目的とする.」とある.

 

どっちがどう違うのか,何度か読み直してみてもどちらともとれるような定義であるが,一つだけ違うところは,自立した研究活動,つまりは研究費の獲得や研究遂行のマネジメント的な要素が博士には含まれるのかな,と解釈できるのではと思う.博士の場合,大学にもよるのだが厳しいところだとインパクトファクター付の国際誌に3本,だとか,易しいところだと国内誌でも学術振興会登録学会にアクセプトされていることなど,の条件がある場合もある.しかし,よく考えてみると学会誌の審査を条件の一つに入れているということは,博士号を出す大学側の審査をサボっているとも解釈できるのではとも思う.修論については,学会誌のアクセプトを条件にしているというのはあまり聞かない.個人的には学会誌へ掲載できるレベルは担保する必要があると感じるが,修論は学生の自由な発想で進める割合が多いので,あれもこれもやってスリムでない研究が多く,学会誌向きではないように感じることが多い.このあたりが,頑張ったで賞といわれる所以かもしれない.

 

さて,審査する側の立場として大切な立ち位置,指針としては自身が審査を受けたときの主査,副査の先生方にしていただいたことが一つの基準となる.学会誌の査読とは違い,修士論文の審査には教育的な視点が必要だろう.研究の視点,ロジック,誤字,グラフ,表の作成など様々な点において,修了生が国内のどこの研究機関の職についても恥ずかしくない力をつけておくことが大切だろう.時代は繰り返されるが審査される側で育てられてきた私だが,いざ審査する側の立場にたって次の世代により質の高いアドバイスや時代に応じた指導をしていこうと思う.

 

 

 

 

 

大学教員は事務仕事をすべきなのか?

少し挑戦的な見出しをつけてみた.

大学教員は事務仕事をすべきかどうか?という疑問だが,おそらく,国内のほとんどの大学において事務仕事はしたうえで,研究活動,教育活動をすべきだという回答が返ってくるのは間違いないだろう.だがしかし,本当にそれでよいのかという疑問を持つべきだと考える.

私が博士課程の大学院生だった時に研究のイロハを指導教員や先輩方に学び,論文の書き方,学会発表の仕方,アイデアのまとめ方,外部資金(研究費)の申請方法などを学んできた.少なからずその学びの環境には国税が投入されている.しかしながら,実際に大学に勤務しだしてから行う仕事の大半は雑用である.ともすると雑用をこなすことが仕事をすることと勘違いしてしまう危険性すら感じる.確かに最低限度の事務仕事をこなすことは,いくら教員,研究者と言えども社会人として仕事をする上で必要なことである.しかし,事務仕事が仕事のメインになってしまっては本末転倒で,本来行うべき研究活動,教育活動に十分な時間が割けない状況はよろしくない.

以前,私が勤務していた某大学では,学生活動の支援として銀行口座を4つ作成して予算を管理していた.現在の大学では1つである.本来,学生活動のための予算管理は事務が行うべきであろう.何のために国税を使って研究を進めて,論文をパブリッシュして,学会発表をしてきたのかを考える必要がある.下記の朝日新聞社の記事によるとアメリカの大学では,過去25年間に事務職員を2倍以上に増やしたという.さらにはレクチャラー(講師)と研究スタッフが役割分担を明確にしているという.日本は真逆で教員への事務負担,授業コマ数は年々,増加傾向にあるように感じる.これでは,日本が目指すべき科学技術立国の理想は遠ざかるばかりだ.

 

webronza.asahi.com

 

邦人のノーベル賞受賞などもあり,男の子のなりたい職業の第二位に「学者・博士」がランクインしたらしい.30年後,50年後を見据えた改革が必要だろう.

冒頭のタイトルに対する個人的な答えは,時間を上手に使って事務・雑用処理もしっかり行って,研究,教育に励むというのが現在,できることというか,それしかないのだが,国,大学レベルで考えると,改革が必至だ.

大学教員の冬休み

新年あけましておめでとうございます.このブログに目を通していただいた皆様に感謝申し上げます.ほとんど独り言に近い内容ですが,何らか役立つことがあれば幸いです.今年も月に数回は更新しますのでどうぞよろしくお願いいたします.

 

さて本日の話題は大学教員の冬休みについて.

大学教員の冬休みはとても短い.夏休みにも書いたが,大学教員は授業以外にも多くの仕事を抱えているが,外からは見えにくい仕事が多い.そこで,12/27~1/5までの冬休み期間中にやるべきこととして抱えている仕事を箇条書きにしてみた.

 

・アンケート調査データ分析,報告書作成

センター試験の試験監督業務の確認

・学会研究助成の報告書作成

・来年度のシラバス作成

学位論文の審査

・大学体育会スポーツイベントへの参加

 

などである.一つ一つの仕事量が見えにくく,どれも奥が深く,一定のクオリティが求められる.私の場合,休みは12/31と1/1ぐらいで,あとはどの日も机に向かっているような状況がある.それでも,お正月もスーパーなどで仕事で働いている人を見ると恵まれていると思う今日この頃である.ちまたのニュースでは本日1/2の午後からUターンラッシュのピークだと言う.いったい日本は何故こんなに忙しくなってしまったのか...? 三が日ぐらいみんなで”せ~の”で一斉休暇とはいかないものか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

論文の査読

大学院生時代の苦い思い出がある.それは,初めて学術雑誌に論文を投稿した時のことだ.

 

投稿するまでに研究室の指導教員に投稿OKの返事をもらう必要があるのだが,相当の時間がかかった.指導教員のOKが出た後,投稿した後も査読結果が思わしくなくギリギリ首の皮一枚つながって再査読になった.2名の査読者の判定がB(再審査),C(不可)であったので3人目に査読が回りB判定であったので,なんとか再査読にこぎつけた.

その後も3回程,編集委員とやり取りをして投稿から掲載まで1年半ぐらいかかった.

 

研究室の先輩からも,論理的でないと指摘され何度も何度もやり直しを指導された.この経験は今では自分の財産になっているのだが,当時は何がいけないのか,素直に受け入れるのに時間がかかった.もうかれこれ,10数年前の話だが昨日のことのように覚えている.

 

そんな私が今,2つの学術雑誌の編集委員を担当している.編集委員の仕事は査読をする研究者を探してお願いをして,投稿論文に対して最終的な判断をする.若手の投稿者に伝えたいことはいつも決まっている.査読者は悪気があってコメントを書いているのではなく,前向きに改善することを望んでいるということだ.もし,甘い査読をして論文が掲載されたとしよう.その論文は投稿者の一つの業績になるかもしれない.しかし,内容が論理的でなかったり,分析方法が正しくなければ,間違った形で世にでることになる.そうすると,雑誌の発行者,つまり編集委員編集委員長は責任問題になるかもしれないし,投稿者自身はもっと大きな責任を問われる可能性もある.つまり,その論文の読者が内容を参考にして,次の実験を行ったり,教育に活用したりすることがあり,誤った情報が世に広がると非常にまずいことになる.

 

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だから,どのような研究誌であったとしても,基本的に正しいことは正しい,間違えていることは間違えていると伝えなければいけないのが査読者,編集委員の責任ではないだろうか.そうである一方,若手の研究者が行った研究の内容が論文になって,世の舞台にでることも重要だと思う.若手研究者ならではの研究の着眼点は面白くても,まとめ方がこなれていない為に論文にならずに,消えていくのはもったいないと感じる.

出張先のホテルについて

 

大学教員は裁量労働制なので決まった時間に同じ研究室内で時間を過ごす必要はない。学内にいることもあれば、国内外に出張して研究の打ち合わせをしたり、学会に参加したり、講演会を頼まれたりすることもある。場合によっては授業を休講にしても学外で仕事をする必要が出てくることもある。

 

私の場合は時期にもよるが月に2〜3回は飛行機や新幹線に乗って、あちこちに行く。出張が多い方か、少ない方か分からないが会社員をしていた時はもっと出張が多かったように思う。

 

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出張には大抵、宿泊を伴うのでホテルを選ぶのだが、ホテルの選び方を間違えると後々、手間がかかる事がある。一番重要視するのはアクセスのし易さである。安くて設備が良いホテルもあるが、空港や目的地からのアクセスが悪いと移動に時間を要したり、交通手段を検討するのに手間がかかる。

 

そこでアクセス重視で何件かに絞り、その中から値段、雰囲気、部屋の広さ、朝食サービス、レビューを調べて、最終的に一件を選ぶ。

この作業はまさに研究者が、論文データベースの沢山ある論文の中から、キーワードと内容から参考になる先行研究を調べる作業に似ている。時間が永遠にあればじっくりと検討することができるが、素早く最善の選択をすることが求められる。論文の場合、いざ読み始めてみると実験法などが手薄だったり、分析が甘かったりして、後からその論文を読んだことを後悔したりすることもある。

 

話をホテルに戻すと、先日の出張で利用したホテルはアクセスは良かったのだが、部屋が密室でホコリっぽい感じがした。そうすると熟睡できないし、落ち着かない感じがした。結果的に仕事のパフォーマンスに悪影響が出ることが懸念されるぐらいのレベルであった。過去に別のホテルでは、アメニティが全てフロントにあり、後から取りに行かなければいけなかったり、シェーバーが安物っぽく、切れ味が悪く手間がかかったりと出張先で余計な仕事が増えてしまうことがあった。そうであるならば、始めから4つ星、5つ星のホテルを選択しておけば良いのだが、出張旅費の規定で宿泊費の上限が決まっている。限られた予算で如何に理想の宿泊先を選べるのかはもはや出張の楽しみの一つにさえなっている。

 

優秀な秘書が最適の工程とホテルを予約して準備してくれるような教授になれれば良いが、出張の手続きを自分でおこなっている以上、上手くやるしかないですね。