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大学教員として生きる道

著者は私大の准教授です。大学教員になるまでの経緯、日常の出来事などを記録します。

急に舞い込んできたTV取材

今日,たまたまちょっと変わった仕事が舞い込んできた.

私が関わっている研究分野で,TVの取材をしたいということであった.

 

こういう仕事は急に舞い込んでくる.初めに連絡があってから,3日後にTV撮影という超タイトな感じであったが,色々な関係もあり引き受けることになった.

 

取材の部屋に入るなり,大きなカメラがセッティングされていてスタッフが5-6名いて皆さんと名刺交換をするなり,では椅子に座ってください,という感じで20分ぐらいの取材を受けた.このような仕事は私にとってはじめての経験であり,大変勉強にはなった.よくTVに出演している有名大学教授は,おそらくこのような仕事を難なくこなし,TV局の関係者の期待を大幅に上回るパフォーマンスをしているのだと思う.

 

私にはあまりそのような野望はないので,無難に終えてホッとしたところだ.

 

様々な質問を受けて改めて感じたのは,日々もっと勉強をしておかないといけないなということだ.論文を書いたり,学会発表を行ったりするのは,ある程度の時間をかければ可能である.つまり,分からないことは調べたり,聞いたり,文献を引用したりすると解決できる.しかし,TV取材となると予め頭の中に多くの知識が詰まっていないと,とっさの質問に意義のある回答をすることができない.

常に最新のトピックスであったり,一般の方が興味を持つような内容にも的確に回答できるように準備しておく必要を感じた.

 

 

大学教員が裁量労働制で働く理由

大学教員の土日にはやるべきことがいっぱいある。

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何があるかというと、まずは学会、研究会など他大学の先生方と集まる会は土日が多い。そして、一般向けの講演会や入試、オープンキャンパスなども土日が多い。

 

そして、研究活動そのものが大学の授業がない土日にしかはかどらないという現実もある。他人の書いた論文の査読や学生の論文のチェックなども土日にやることが多い。考え方によっては最近問題となっている過剰労働に該当するのかもしれない。

しかし、以前に書いた「大学教員の仕事内容」 でも示しているが、

http://shiranaitoson.hatenadiary.com/?page=1510571621

 大学教員は裁量労働制なので、土日に仕事をしても平日に上手く時間を使って疲れを取ることができると思う。

 

学校によっては教授でも出勤簿に記録を付けないといけない所もある様だが、そうなると土日にした仕事について残業代や休日出勤代を払って欲しいという要望がでたりするかもしれなく、複雑になってくるだろう。

もう一つ、研究者にとって裁量労働制の良いところは研究活動には波があるので、一気にかたずけないといけない仕事がある時に時間を自由に使えることだ。時には締め切りに間に合う様に徹夜で論文を書かなければいけない時もあるが、次の日はゆっくりしたいと思う。このような理由から、裁量労働制は絶対に死守しないと大学自体がおかしなことになってくると思う。もし、大学教員の仕事時間を管理されると、人によっては土日には仕事をしなくなる危険も出てくる。

 

しかし、この裁量労働制を都合の良い様に解釈する人が増えてくると厄介だ。土日も仕事をしないし、平日も授業しかしないダメな教員も確かにいる。

そのようなダメ教員にならないよう日々精進しなければならない。したがって、裁量労働制は表面上は、労働時間を自分で管理できるというカッコよさはあるが、その根底には厳しい業績審査があって然るべきだと思う。例えば、1年毎に業績審査をしてその成果に応じた報酬、昇格などの審査をする仕組みが必要だろう。

 

かく言う私もうかうかしてはいられない。最近の20歳代後半〜30歳代の研究者の業績量は、私たちの世代からするとポスドクの期間が長いこともあり半端なく多いと感じる方もいる。

 

私自身は最低1年にファースト論文1本はノルマにしている。多少の波はあるがこの10年でファースト論文はちょうど10本であった。このペースでいくと20年後論文が30本になる。しかし、このペースでは遅いかと思う。また、若手の教員にはそんなに甘くて良いのか?という声もあるかと思うのが、准教授になると学内の業務が多忙になる事に加え、学会における各種委員や論文の査読など若いうちにはあまり経験のなかった仕事も増える。そうは言うものの私にも目標があり、現役の大学教員であるうちに博士を輩出したい。Dマル合の資格の目安が論文30本程度と言われているから、私が現役で教員をしている間に博士号取得者を数人しか出せないことになる。最低1年に1本はノルマとして,1年に2本だせるよう頑張ろう!

 

 

 

4月1日,科研費 勝負の明暗!

 

大学に勤める研究者にとって,数年に1回の4月1日は勝負の明暗がはっきりする日だ。

昨年度の秋に申請した科研費の採択結果がわかる日だ。

小中学生の通信簿のような意味もあるし,この先数年間の見通しが立つかどうかの目安となる。

 

私は大学教員になって,8年経つが今まで1年だけ科研費が途絶えた時がある。その時は本当に悔しかったし,民間の研究助成に応募して何とかしのいだ記憶がある。

 

昨年、夏に申請書のアイデアを考えている時と科研費申請時期にこのブログ記事で下記の内容を載せた。

 

shiranaitoson.hatenadiary.com

  

shiranaitoson.hatenadiary.com

 

今回の採択によって向こう3年間の見通しがついた。

 

教員になりたての頃は,自分の責任に基づき研究を進行できる喜びを感じていたが,ここ最近は採択された嬉しさと同じぐらい,採択されたからにはやらないと,という責任感の方が大きくなってきたように思う。

 

科研費に採択されるにはいくつかポイントがある。

1.研究業績が十分にあること

2.研究業績が研究計画と合致しているかどうか

3.研究計画に新規性や発展性があるかどうか

4.研究計画を遂行する環境が整っているか

5.審査員がこの研究にお金を費やして良いと思えるかどうか

 

そのようなところだろうか?

私が在籍する部門では科研費の申請をしない教員もいるし,申請をしたけど不採択だった教員もいる。或いは,私なんかよりもっと大規模な予算を獲得して,大きなプロジェクトを進行させている教員もいる。

申請しない教員には科研費に採択されると,余計な仕事が増えてしまうという人もいるかもしれない。科研費の数百万円の予算など学生(親御さん)が大学に支払う授業料に比べると安いものかもしれない。学生一人が退学すると大学4年間で換算すると,大学に入る予算は基盤Cに匹敵するぐらいかもしれない。そのように考えると,科研費の採択を受けて研究を行う以上に学生ひとり一人を満足させる教育が必要かもしれない。

 

しかし,科研費の採択を受けるということは,他大学の審査員が研究計画に対して太鼓判を押してくれたことだろうし,研究費を使って研究を推進させること,論文を発表したり学会発表をすることは,大学の価値を押し上げることにも役立つし,教育の質を高めるためにも必須であると思う。

 

私が勤めている大学では,科研費の採択者に対して奨励金という形で自由に使える予算が30万円/年つく。これは意外と大きく,直接経費では購入しにくいものなど研究環境を整えるために大変役に立つ。隣の国,韓国では国の助成金の採択者には最大で給料が1.5倍まで増える制度があると聞いたことがある。

わが国でも,一所懸命に研究を行い成果を出している教員には給与を高くして,そうではない授業しかやらない教員の給与は少なくするなどの給与計算も必要ではないかと思う。

研究費は税金の一部なので,この予算を使って国民の役に立つ研究をしなければならないし,その重責に応えられるだけの努力をしなければならない。

何はともあれ,幸先の良い平成29年度のスタートだ。じっくりと取り組み,お世話になった方々の恩に報いることができるよう頑張ろう。

 

 

 

 

研究会での発表

とある研究会で発表するために沖縄へ来た.学会や研究会に参加するとで得ることが沢山ある.今回,同じ領域の先生と交流することで自身の研究を進めるために大変有用であったと感じることができた.研究会に参加する意義を振り返ってみた.

 

1.最新の研究や国内の動向を知ることができる

2.かつての同僚等と交流を持てる

3.その地域の風土・文化を知ることができる

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私は学会や研究会に参加する時にはなるべく発表をするようにしている.

発表しないで学会に参加することもあるが,その時は必ず1回は質問をすることを自分に課している.質問することで演者が自身の研究の課題を見つけたり,今後の方向性を考えるきっかけを作れればと思っている.逆に,自分が発表した時に質問があまり出ないときは,発表の内容が面白くなかったということで反省しないといけないと思う.

 

今回の研究会に参加して感じたことは,大学の事情が地域や大学の規模によって全くことなるという点だ.また,国立大学と私学,旧帝大と地方国立,大規模私立と小規模私立など同じ領域の教員,研究者でも随分と環境が異なるということだ.

特に2018年問題(2018年以降18歳人口が減少し大学入学者が減少すること)の影響を受け,教員の削減や教育改革による授業数の減少などにより分野の縮小が余儀なくされている.これに対抗するのは,同じ領域の教員の協力が欠かせないだろうし,教員自身にも従来のやり方を踏襲するだけではなくイノベーションが必要だろうと思う.また,高等教育局の動向や中央教育審議会の動きにも目を光らせておかなければいけない.

 

研究会に参加して良かったと思うのは,規模が大きすぎる学会だと如何にも大規模な予算で最先端の研究をしている研究者が注目される訳だが,小規模な研究会では大学の規模や研究の予算規模にかかわらず同じような興味や関心を持っている先生方が参加するので,より親密な交流ができるということが挙げられる.だが,最近,あまりにも同じような学会や研究会が増えすぎて収集が付かなくなっていると感じる.

 

時間は作るもの

いつも時間に追われているような感覚になる人はいないだろうか?

 

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私の回りにもそのような人を良く見るし、かつての私がそうであった。

担当しなければならない授業コマ数が多く、校務に追われて、一体、いつ研究をする時間があるのだろうかと愚痴をこぼしていたりした。そして、帰宅時間が遅くなり、朝起きるのが辛くなり・・・の悪循環。

 

確かに、研究を進めるにはまとまった時間が必要だと思う。

しかし、時間が永遠にあったとしても研究が進まないことがある。例えば、読もうと思っていた本に中々手をつけられたかったり、やろうと思っていることに集中できなかったりすることがある。しかし、読もうと思っていた本を電車の中では読むことができたり、やろうと思っていることを出張先のPCで済ますことができたりすることがある。それは、限られた時間と空間が可能にさせていると思う。

人の行動は環境が左右すると言っても過言ではない。

やろうと思っていることが中々、進まないのはその人の意志が弱いというだけではなく、環境を変える必要があると思う。

 

もう一つは、時間のかたまりをつくるための努力が必要だ。細切れの時間が沢山あっても、人の思考回路も細切れになりじっくりと物事を考えることができなくなってしまう。まとまった時間を確保して、高い集中力を維持することは最も重要だ。そのためには、お酒を飲み過ぎず食事に気をつけること、疲労をためないこと、健康状態を最良に保つことなどが大切だ。

そこで私なりに研究を進めるために努力していること、努力しなければならないことを箇条書きにしてみた。

 

モチベーションを維持するため

・定期的に勉強会や研究会、学会などに参加する

・教え子と会う、恩師と会う

・新聞を読む

・実生活の中で研究との関連性を常に考える

 

時間を確保するため

・メールを見る時間を限定する

・ネットサーフィンをしない

・細切れの時間は研究ではなく作業ベースの雑務をする

 

仕事を進める環境を変える

・たまには図書館を利用する

・カフェを利用する

・自宅で仕事をする

 

将来の自分への投資を惜しまない

・健康(運動、食事、睡眠、口腔ケア)

・語学力UP

 

 

 

 

チャレンジする勇気とやめる勇気

1.何かを成すためには何かをあきらめる必要がある.

2.どんなことにも挑戦する勇気が必要.

 

この対立する2つの事象,どちらが正しいのか,いつも考えながら行動している.

基本的なスタンスとして,何かにチャレンジして無駄になることはないという信条を持っている.たとえ失敗したとしてもチャレンジしたことは,必ず次につながると思う.しかしながら,大学院を修了しようと思ったら仕事をやめる勇気は必要だと思う.特に後期課程においては仕事をしながら博士号を取得するのは,相当な努力が必要だ.

 

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私自身は,サラリーマンをやめて大学院に進学した経験がある.大学院の学生時代は,学生寮に宿泊し,薄給の職に就き,家庭教師などのアルバイトなどで何とか20歳代,30歳代前半を食い繋いだ.本当は仕事をせずに学問に没頭したかったが生活ができないと学問さえできない.

最近の社会人向け大学院は,働きながら修士課程を修めることができることを売りに多くの大学で開講している.多くの人が学問にチャレンジできる環境が整いつつあることは大賛成なのだが,本業を継続しながら論文の作成にあまり時間をかけず片手間のように仕上げ,審査を通すことには反対だ.

吉田松陰は,「学は人たる所以を学ぶなり」という名言を残している.

 

shoin-jinja.jp

  

学問を出世のためだとか,名誉,名声のために行うことは本末転倒で,”人として正しい生き方を学ぶことにある”という意味のようだ.修士号,博士号の修得は企業や研究機関では次のステップに進むための重要なマイルストンの役割をしているのかもしれない.最近の大学における教員資格審査は厳格で,論文の数,雑誌のランクなどこと細かに調べる傾向がある.そのこと自体は教員の努力を正しく判断するという意味で重要なことだが,業績を上げることが目的になっている人を見かけると残念な気持ちになる.そして先に挙げた吉田松陰の教えにもどる必要性を感じる.

 

人生はチャレンジする勇気,やめる勇気の二者択一の連続だ.何にチャレンジして何をやめるのか,日々葛藤しながら後世に何かを残せればと思う.

英語の論文をパブリッシュする意義

先日、モスクワのとある企業の研究者からメールが来ているのに気づいた。

どうやら、私の論文を読んで内容に興味を持ったらしい。

 

今や世界は小さいもので、英語で論文を書けば世界中の何処からでも、ネットを通じて論文にアクセスして読むことができ、更にはメール一つでその内容にまで踏み込んで瞬時に連絡をする事が出来る。一体、30年間前、誰がこのような世界を想像したであろうか?  30年前、私が小学生だった時、コンピュータゲームはファミコンゲームボーイ、まだインターネットはなかった。携帯電話もなかった。もちろんメールもない。

 

英語で論文をはじめて書いたのは10年前だった。何となく日本語で書くよりカッコいいし、論文の価値も高くなるだろうと言う浅はかな気持ちであった。本来は論文の内容を日本人に沢山読んでもらいたいならば日本語で書くべきだろうし、世界的にみてもインパクトがある、新規性があるということであれば英語で書くべきだと思う。はじめて論文を英語でパブリッシュしてから、今まで何本か英語論文をだしてきた。これまで具体的な内容にまで踏み込んで何らかのアクセスが入る事はなかったが、今回は何やら面白くなりそうだ。 もしかするとブレークスルーするきっかけになるかもしれない。いや、ブレークスルーさせなければ今まで国の予算を使って研究しているのだから、その責任を果たす使命がある。このロシアの研究者の事は引き続き別の機会に進捗をまとめたいと思う。

 

英語で論文をパブリッシュする意義は、世界的にみて面白い事、価値がある事は共有しようと言う研究者の熱い志だろう。そこには単に自国の国益のみを優先すると言う様な小さな視点ではなく、世界共通の悩みであったり問題点を解決する為の試行錯誤がある。その様な大きな心で研究を進め、自分の身の周りから少しづつ世の中を良くしていければと思う。もう一つは、これは研究者のスタンスなので一概には言えないだろうが、論文をパブリッシュする事は研究者の大切な仕事として、それをどの様に社会に生かすのかと言うもう一つの大事な仕事がある。二兎追うものは一兎も得ずという諺があるが、私はどちらも成し遂げれるような研究者&実務家でありたい。

 

たまに一体、このブログ記事は誰に向けて書いているのか、まとまらなくなってくるのだが、結局は自分の頭の中を整理する為かなぁと思う。と言う事で個人的なつぶやきのようなブログ記事ですがここ迄読んでくれた読者に感謝です。